「あの騒がしさが懐かしいか?」
「おまえの子守だけで十分だ」
―――つまり、私がいなければそちらに行くのか。
two traffic lane love - 7.Good-bye my God
『彼が高位咒式士で良かった。一般人ならこんな“軽傷“にはならなかった』
そう言った医者が病室を去ってから結構な時間が経ったと思う。壁に掛かる時計の長針と短針はもう幾度もすれ違っていた。
全てを塗り潰しそうな白い病室。その色への不愉快さは愚か、腰掛けたパイプ椅子の座り心地を気にする事も無い。
そしてこうも余裕無い己を嘲笑する余裕さえギギナには無かった。
「‥ガユスも咒式士だったのだな」
点滴を繋がれ寝台に横たわる顔色が悪いのは初めから。
先ほどの骨折や損傷箇所は既に完治しており、打ち身程度の傷しか残っていない。
忘れていた訳ではないのに、忘れていた。
己と比べて明らかな体力差。吹けば飛びそうに薄い身体。ギギナにしてみればそこらに転がる小枝と何も変わらない。
現実に数時間前、この身体は宙を舞った。
あの時。
当てもなく街中を歩いていた時に大声で名を呼ばれた。
反射的に辿った音源はギギナのいた歩道とは反対側。ガードレールを乗り越え、四本はあろう車線を横断して来る人影が目に入った。
状況判断も何も無い馬鹿げた行動にぎょっとして「来るな」と叫べば、駆けていた彼の足は縫いとめられたようにぴたりと止まった。‥‥車道のど真ん中で。
―――何もこんな時ばかり素直に言う事に聞かなくてもいいものをっ!!
「違う、そういう意味じゃない」「信号の色くらい確かめろ」「いいから戻れ」―――伝えようとした時には全てが遅かった。
あの後、負傷したガユスをどうやって病院に搬送したのかは覚えていない。
事故現場は大通りでしかも白昼だったから通行人の誰かが通報したのだろう。
戦闘中には相棒の身体を物でも投げるように放ったこともあるくせに、焼きついた事故の光景は今でも現実味がない。
地面に叩きつけられた身体が受けた損傷も出血も大概で、ギギナの服に染込んだ血の匂いが良い証明だった。
しかしどうだ。
治療を施した結果、それらの“重傷”は咒式士であるが故の肉体強化の結果、“軽傷”に変化した。
意識が戻れば即日退院、とまで言われた程。
その回復力にギギナの力はなんら関与していない。
強気に吠えてみてはいとも簡単に負傷する。
何かあればアルコホルを煽って現実逃避を図る。
ギギナが咒式士の基準に己を置き、倫理観の定規に己を使う以上、ガユスという人間はあまりにひ弱で「咒式士らしくない咒式士」だった。
肉体的にも精神的にも弱い生き物という印象ばかりが先行していた。
そんな様を商売敵のアルリアンには「過保護」と呆れられもした。
実際、その通りだった。
ガユスは常に守られなければならないほど弱い存在ではなかった。
必ずしも助けを保護をギギナを必要とする存在ではなかった。
依存しているのは己の方‥‥己だけだ。
ギギナにとってガユスは一人しかいないから守らなければと思った。思い込んだ。
それに薄々感づいて、しかし気づきたくなくて。失うことに一方的に異常なまでに恐怖して、彼の実態が見えなくなっていた。
互いに咒式士で無かったならば、すれ違いはすれども出逢うことなどありはしなかったのに。
「‥あの」
寝台の上から控えめな声が響いた。
呼びかけられた方の身体は強張る。殊更ゆっくりと顔を上げると、青い瞳が真っ直ぐにギギナを見ていた。
青。数日前に自分が傷つけ、けれど固く閉じられていた為、傷すら見せなかった瞳。
数日振りに見たその色は酷く澄んだ色をしていた。
「‥‥起きた‥のか」
搾り出された声は掠れていたが、狭い病室では十分だった。
現状を示しただけの言葉に返事はなく、探るような視線はギギナから逸れることはない。
その視線に込められた意味はギギナにはわからない。‥‥顔を、逸らしてしまったから。
(‥何故、貴様は)
そうも真っ直ぐこちらを見ることが出来る?
自分を視界に入れるだけでも不快を伴う筈だ。
それとも責めているのだろうか?合意も何もなかったあの行為を。
「‥ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」
酷く静かな声だった。
続く言葉は糾弾か、怨嗟か、決別か。
俯いたまま黙って相手の言葉を待つしかないギギナは覚悟も出来ないままに目を瞑る。
けれど目の前の男が発した言葉は、ギギナの予想のどれでもなかった。
「あんた、誰?」
―――厭な予感がした。
途端、ギギナの中で警告音が鳴る。
戦闘時に理屈でない危機感を覚えるあの感覚。表皮がざわめき、内臓が重く熱いあの感じ。
真っ直ぐにギギナを見つめる青い瞳。あのような無体を強いた自分を正面から迎える青い瞳。
先日の自分への意趣返しとか嫌がらせとか、普段の罵詈ではない。
疎ましく、汚らわしく思われる事への身勝手な悲観や悲壮感ではない。
予感。直感。悪寒。本気。半鐘が鳴り止まない。
甲高いその半鐘音に怯んだように固まり動けないギギナの身体。
ふわりと寝台から身体を起こした男。白い病室内では色感的に浮くしかない赤い癖毛が揺れる。
物珍しげにきょろきょろと動く青い視線は隙だらけで、ギギナの知らない幼い仕草。
全てが他人行儀に見えるのは、見知った筈のその面にいつもの知覚眼鏡が乗っていないせいだと思った。
「‥‥ていうか。」
―――そう 思い込もう と した。
「俺こそ、誰?」
頭の中が真っ白になってくれたのはたったの一瞬だけ。
現状の理解は嫌でもギギナを追ってきた。
「なぁ」
男の瞳がこちらを向く。
青い色。
とても清く澄んだ―――気持ち悪いくらいに、澄み切った青。
「あんた、わかる?」
‥すとん、と。
ギギナの中に落ちた物があった。
次いで「嗚呼そうだ」と納得した。
ガユスは一人しかいないのだ。
だから守らなくては。
だから。
『あの騒がしさが懐かしいか?』
『おまえの子守だけで十分だ』
―――絶望は、いらない。
「おまえは、ラルゴンキン咒式事務所の咒式士だ」