76.いつもと違う





『ピンポーン』

前触れも無しに鳴った呼鈴。
それは己にはあるはずのない来訪者を知らせる音色。
自宅のリビングで今月の家具雑誌を熱心に読み耽っていたギギナの顔に浮かぶのは不審の表情。
訝しみながらもギギナはインターホンで応答もせずに扉を開ける。
同時に流れ込んできた夏の湿った熱気に秀麗な銀の美貌が歪む。

しかし、無人。
開いた扉の向こうに自分を呼び出したはずの来訪者の姿はなかった。
刺客かと思い周囲の気配を探るが、感知できたのは自動昇降機が起動した音だけ。

(──子どもの悪戯、か)

狐に摘まれたような不快感と共にギギナは冷房の効いたリビングへと戻る。

「──‥」

戻って、身体が強張る。
そこには先ほどまで自分がしていたようにソファで優雅に足を組み家具雑誌をめくる同族の男。

「‥‥ユラヴィカ‥」

名を呼ばれたその男はゆっくりと視線を上げる。

「ここは涼しいな、ギギナよ」

今一、起こった事態が飲み込めず、ギギナはリビングの戸口に佇んでいた。
一方、その最たる原因のユラヴィカは自分の名を呼んだきり黙り込む彼の様子を大して気にした風もなく口を開く。

「自宅でのお主は全裸だと聞いていたのだが、今日は違うのだな」
「‥何故貴様がここにいる」

からかいの色を含んだ問いは無視。
しかしやっとで紡いだ言葉が掠れてしまったのは隠しようがない事実。
自分の失態に舌打ち、ギギナは八つ当たりするように不法侵入者を睨みつける。

「何故だと思う?」

しかし返ってきたのは愉快そうな声音に乗った問いに対する問い。

「先ほどのは貴様の仕業か?」
「先ほどの、とは‥」

態とらしい逡巡。
あまり気の長い方では無いギギナの精神が焦らされ苛立ち始める頃合いを見計らい、銀の視線が眉間の蝶の入れ墨と共に自分を迎える。

「お主が周囲の気配を探ったがしかし私には気付かなかったことか?」

──遊ばれている。
そう悟った瞬間、ギギナの纏う空気が険悪なものに変わる。
しかしその矛先を向けられたユラヴィカは怯みもせずに、寧ろくっくと面白そうに嗤う。
その嗤みが気に入らない。
怒気を通り越したそれは峻烈な敵意、エリダナ屈指の前衛咒式士、至高の剣舞士、ドラッケンの狂戦士の殺気。
受けるは“顔狩り”の異名を持つ晶珪士、30億イェンもの賞金を掛けられた同朋殺しの凶戦士の涼しい顔。

「他愛も無い子どもの悪戯だ。許せ」
「どう考えようとも貴様の方が年上だろうが」

真面に取り合うのも馬鹿らしい。
この男と言葉を交わすのは好きではない。
小賢しく頭の回るお喋りな、正に口から生まれてきたような相棒と言葉を交わすのとは違う。
私の本質には決して触れようとせず、一定の距離を保つ相棒の言葉とは違う。

この男は。この男の言葉は。

「屋外の熱気はどうにも堪え難くてな。通り掛かりにお主の自宅が見えたので涼を貰いに参上したまでだ」
「貴様にくれてやる冷気など団扇一扇ぎ分も有りはしない」
「あとは麗しの姫君を愛でに」
「いらん。黙れ。帰れ」

戯れ事など聞きたくない。
我らドラッケンは一振りの剣と拳で語ればよい。
それでいい。
それだけでいい。
それ以外はいらない。
──いらないのに。

「可愛げのない」

冷たく凍えたその呟きに沈み込んでいた思考が一気に現実へと引き戻された。
先程よりも声が近い。
長く黒い影が差して、つられて顔を上げれば自分と同色の霜が張ったような瞳があった。
そして己の乾いた唇に白い指が触れた。


「この唇はもっと可愛げのある声を上げる筈だが?」


鼓膜に直接叩きつけられるような声に背筋が走り全身が泡立った。
唇に触れている指先など噛み切ってしまえばいい。
覗き込んでくる冷たい瞳など抉り出してしまえばいい。
近付き過ぎた距離ならば、また離れればいいだけのこと。
なのに。

「…ッ!」

そこまで考えてやっと思い出したように緩く巻きついていた腕を振り払って後退する。
しかし初速に欠けた為、追って伸びた腕に簡単に手首を掴まれ、 足を払われて慣性に従い背中から床へと二人重なるように倒れ込んだ。

二人分の体重に床が軋む音に、遅れて雑誌が落ちる渇いた音。
真上から自分を見下ろす美貌と翅を広げた蝶は天井からの照明で影となって見えない。
そして口腔に感じる怖気の走る感触。

「…っ、…!」

接触。

忌み嫌うその行為への嫌悪で身が竦んだ。
意思を無視して続くそれから逃れようと藻掻けば離れていった唇に添った首を齧られ意図せず大きな声が上がった。
自覚して顔面に朱が上ったのがわかった。
それは怒りからなのか醜恥からなのか、それとももっと別の何かからなのか。
混乱、嫌忌、恐慌、焦燥、惑乱。
どうしたら良いのかわからない。

「ギギナ」

己の名を呼ばれ、ただそれに引き寄せられるように顔を上げればわけもわからぬままに口づけられる。
虚構の優しさを含んだそれ。
―――わかって、いるのに。

「まだ、日は高い」

それだけ言ってユラヴィカはギギナから離れる。
そして、飲み物を貰う、と言い残し台所へと消えてゆく。
ギギナは呆然と天上を見上げることしか出来ない。

‥‥いらない。
こんな不可解な想いは。こんな軟弱な思考は。
半分しかない民族の血の繋がりも、染み付いたプライドの足枷で、歩むことの出来ない自分自身も。
人の弱さはあの時全て捨てたのに。
血生臭い戦闘と鮮血の闘争。
それさえあれば満たされたのに。

「‥‥必ず‥」

―――なのに。


「‥‥必ず、貴様を殺す‥ッ!!」


噛み切った唇から流れる血が甘い。
しかしそれも青き蝶が与える甘さには遠く及びはしない。
求めるものはこれじゃない。
そう叫んだ。

叫ぶしか、出来なかった。







2010.08.25  わたぐも