―――ゼロがいない世界を作った。
「‥‥あ、」
「待って。動かないで」
談笑の間にナナリーが口に運んだティーカップ。
しかし盲目、彼女の口唇から紅茶が零れる。
それをスザクはハンカチでそっと拭った。
「スザクさん、ありがとうございます」
「どういたしまして」
恥ずかしそうに笑うナナリーにスザクは微笑み返す。
和やかな時間。
刺々しい軍務の合間を見ては、スザクはナナリーの元へと足を運んでいた。
ふと。ナナリーの表情が翳ったのをスザクは見逃さなかった。
「ナナリー?」
「‥お兄様も良くこうして私の零した紅茶を拭ってくださいました」
「っ、‥そ、う‥ルルーシュが‥」
意図せずとも口が縺れる。
エリア11で、ブリタニアとテロリストが『戦争』をした日。
あの日以来、ルルーシュはここ、ナナリーが待つクラブハウスに戻ってきていない。
「私‥時々思うんです」
かたん、とカップが皿に置かれる。
その音に、びくり、とスザクの肩が大仰に刎ねたが、ナナリーが気付いた様子は無い。
俯いたまま、小さな口唇が泣き声のような言葉を紡ぐ。
「お兄様はもう、私の‥ナナリーの元には戻ってきてくれないんじゃないかって」
ドクン、とスザクの心臓が鳴った。
破裂しそうなほど強く脈を打つ。頭がぐらぐらする。気持ち悪い。
いっそ此の儘、脳でも心臓でも破裂してしまえば良い、とスザクは思う。
けれどそう思うだけ。実際にはそんなことは有り得ないと知っている。
こんな衝撃では、心臓も脳も。破裂しないことをスザクは知っている。
この程度では人間が壊れないことをスザクは知りすぎている。
どれだけ強く脈打とうとも、それは音となって身体中に響くだけ。
そしてこの音が目の前の少女に聞こえないことばかりを祈っている自分は、どうしようもなく醜かった。
「私は、お兄様さえいればそれで良かったんです。お兄様さえ‥いてくれれば‥」
涙。
それは自分と再会した時に流れたもの。
それが今、たった一人の兄との別離の可能性に怯えて零れた。
少女の生きる理由、かけがえの無いものを奪ったのは自分だ。
怒りに任せて引き金を引いたのは最近のことなのに、昼間は霞んで記憶を巡る。夜になれば悪夢となって鮮明に追ってくる。
そう、俺は、俺が、ルルーシュを殺した。
それが今や軍でメディアで帝国で。最大武装組織を壊滅した英雄として称えられている。
名誉だイレヴンだと蔑まされたあの時とは雲泥の扱い。
先日、街に出た時小さな子どもが自分を指して「ゼロのいない世界!ここは奇跡の騎士様、神の所業!」と褒め称えた。
―――神?自分が?
たった一人の少女の生きる意味を、幸せの全てを奪った自分が?
加害者でありながら、被害者であるこの少女に生きる意味を求めて縋る自分が?
ならば神とはなんと醜い存在なのだろう。‥‥笑ってしまう。
「ナナリー、大丈夫だ」
言い訳ばかりで懺悔すら儘なら無いのは他でも無い、自分自身だった。
変わっていない。自分は何も変われていない。
みっともなく生きて足掻いて言い訳して、生きる意味を探している。
自分ひとりじゃ立てもしない。
「ルルーシュはきっと帰って来るよ」
―――なんて、寒々しい言葉。
ルルーシュは二度とここへは帰らない。この世界には戻れない。
そんなこと自分が一番分かっているのに、口が、言葉が止まらない。
空っぽの言葉はただの音でしかない。分かっているのに。
「彼がナナリーを放って何処かに行ってしまうなんて、あるわけないだろう?」
只々の音を、笑いながら。発し続ける『枢木スザク』という生き物が、どうしようもなく気持ち悪かった。
「そう‥そうですよね」
寂しそうに下がっていた眉が上がる。
小さな手がぎゅ、と握られる。
スザクの方を向いた顔が気丈な笑顔を作った。
―――嗚呼、俺はとんだ嘘つきだ。
「私はお兄様を信じます」
だから大丈夫です、とナナリーが言った。
別れの言葉を交わしてスザクはクラブハウスを後にする。
扉を開こうと取っ手に掛かった手。
骨張った軍人のその手は震えていた。
「咲世子さん。今日のスザクさんの様子はどうでした?」
スザクが去ったリビング。
ナナリーは優雅な手つきでカップを運ぶ。
「先週よりもお疲れのようですね。唇の色が悪かったので睡眠薬を常用しているのでしょうが、隈の色が濃くなっています。明らかに睡眠は不十分でしょう」
「‥‥そうですか」
閉じた瞼の下、紫暗の瞳が窓を見る。もう何も映さない暗い瞳。
赤い唇が綺麗に奇麗に、弧を描いた。
「それは、よかったです」
ティーカップから紅茶が零れることは無かった。
カ ミ サ マ 殺 し
精々嘘と罪を重ねて苦しみ生きろ
おまえを兄と同じ場所になど逝かせはしない
2007.8.14 わたぐも