今、リロイの腕の中を独占しているのは気持ち良さそうな表情の銀色。
それは日の光が暖かいからか。
それともその体温が心地よいのか。


「らぐ」


リロイがその頭を優しく撫でてやると、銀を纏ったそれは身じろぎし、
碧の瞳が嬉しそうに漆黒のそれを覗き込む。

見られた本人は照れくさそうに頬を掻いた。


……少し赤い。


目があっただけで何を照れているのか。

腕の中の銀色はそんな彼を見て一言、






「にゃー」






と、鳴いた。






He doesn’t call my name.





「おい、ちょっとこれ見てみろよっ!」


買出しから帰ってきたリロイは開口一番そう叫んだ。

帰宅してからの第一声は「ただいま」だ。
この男は常識云々以前にここから学び直さなくてはいけないらしい。
しかし言っても無駄なことはここ数年でもう判りきっているのであえて言及はしない。


「……なんだ、それは」


床に放り出されているのは紙製の袋。
こちらは言うまでもなく買出しだろう。
問題はリロイの腕の中に抱えられている小さいもの。


「何って、猫だよ、猫。子猫」

「そんなことはわかっている」


その後のリロイのわかるようでわからない、子猫との出会い話。
要約すれば、“買出し帰りに拾った”だ。


そしてそのまま部屋に入りリロイはその拾った子猫とじゃれ始めた。
というか、この宿はペットの持ち込みは許可されているのだろうか?

私といえば、椅子に座りなおし冷めかけの紅茶を口に含みながらその様子を眺めていた。
子猫とじゃれるリロイの表情には普段の険は無く、無邪気な顔をしている。


(しかしまさか相棒のこのような平和的な光景を目にする日がこようとは…。)


リロイを知る者がこの光景を目にしたなら誰しもが驚くに違いない。
何より私がそう思った。


「お前ふかふかしてんなー…銀色で…白っぽくて……」


――この発言を聞くまでは。


「美味そうだ」

「食う気か」

「……冗談だっての」


今の妙な間が気になる。
しかもこの男は前科持ちだ。
もしそうなれば皮を剥ぐのに使われるのは私の本体に違いない。
あまり…というか、かなり気が進まない。

私が胡乱げなし線を送る先でリロイは何やら考え込んでいる。
そして、またもやとんでもないことを口走った。


「よし、こいつの名前は今から“らぐ”でいく!」

「――はぁっ!?」


危うく紅茶を噴き出すところだった。
しかしなんとか堪え、そのかわり吐き出されたのは素っ頓狂な声。
私のその声にリロイの腕の中の子猫が、びくっ、と震える。


「あ、お前、変な声出すなよ。らぐがびっくりしてるだろ」

「な…!」

「毛色と眼の色がお前と同じだからな。うん、いい感じだ」

「……………」


私は開いた口が塞がらなかった。









後から思い出せばきっと私はおかしな顔をしているに違いない。
自分でも笑ってしまうような顔だと思う。

しかし今の私には笑えない。


「らぐ、ミルク飲むか?」


「らぐ、煮干あったぞ!」


「ボールで遊ぶぞ、らぐっ!来い!」


「らぐ、お前、んなとこ舐めるなっての!」



――面白く、無い。

よくわからんが面白くない。
気分は最悪、垂直落下だ。

…いや、理由はわかっている。


「らぐ」


それが、気に入らないのだ。
もっと言えば、リロイがその名を言うのが。


(……私のことは名前で呼ばないくせに…)


リロイは普段私を名前で呼ばない。
人前では尚更だ。

 あいつ こいつ そいつ 相棒

事実だが、どれも代名詞。

名前を呼ぶことの意味は何だ?
それは個と個を識別するための手段。

私の辞書にはそう載っている。その行為に特別な意味など無い。

元々、“ラグナロク”という呼称は我々全般を指すものであって個体に対する識別としては幅が広い。
私一体の為に用いるのなら“0109”が適切なのだろう。
けれどそこは今はあまり重要な問題ではないので置いておく。
そして先程も述べたように名前、そしてそれを呼ぶことに対する深い意味は思い当たらない。

しかし、なにか釈然としないものがある。

気に入らない。
しかし何故気に入らないのかわからない。
だから何故気に入らないのか考えてみる。

………なんだか、よくわからなくなってきた。







「いっっってぇッッ!??」


そんな叫び声が狭い部屋の中でこだまする。
見ればリロイの手には小さな歯型。


「調子に乗ってるからだ、馬鹿」

「…うっさいな…」


よほど痛かったのだろうか、リロイは涙目でこちらを睨んできた。
その表情に私の垂直落下した気分は急浮上する。

今の心境を表すなら、


(ざまぁみろ)


少々行儀が悪いが誰も聞いていないので良しとする。


「あーあ…逃げちまった…」


リロイは名残惜しそうに、子猫の去っていったドアを見ている。
猫がドアを開けられるはずが無い。
つまり帰宅時からこの男が開けっ放しにしていたと言うことになる。
常識どころか「ただいま」以前の問題だ。
しかし言ってもやはり無駄なのでそのままにしておく。


「お前に食われると思ったんじゃないのか?」


からかいを含んだ私の言葉にリロイは渋い顔をした。
が、それはすぐに意地の悪い笑みに変わる。


――――嫌な予感がした。


「わっ!?」


そして嫌な予感とは当たるもの。

私は逃げる間もなくリロイによって床に押し倒された。


「あっちの“らぐ”は食いそびれたが――――」


やはり、食う気だったのか。

危険を察して逃げたあたり、あの“らぐ”は利口だったようだ。
容姿だけでなく、頭が良いところも私に似ていたのだろう。


「俺にはもう一匹“ラグ”が残ってた」



降りてきたのは日の光よりも温かな体温。
囁かれるのは識別の言葉。



意味は無いと思ったその行為に、私の頬は何故か緩んだ。





リロイってまだラグの名前一度も呼んでないんですよ!!
そして夫が名前を呼ばないのは、低俗な輩に愛する妻の名を知らせない為かと思います。(阿呆の子がいる…!)


05.2.9  わたぐも