「おかえりなさーい」
扉の代わりにもならない粗末な布を潜り、部屋に現れた男は「おかえり」の一言どころか相槌すらうたない。だだちらりと横を一瞥しただけだ。
「二人共変わり無いよ」
意図を汲んでやったというのに男は鼻を鳴らすだけ。
大丈夫、それはいつも君だ。
「照れやさんー。それでお話何だった?」
面倒そうな顔をしながら端的な説明をする君も、その合間合間にふざけた茶々を入れるオレも、いつも通り。
大丈夫、オレもいつものオレだ。ちゃんといつも通り笑えてる。
「──で、ここにいるなら手伝えと」
「働かざる者食うべからずってことだねぇ。誰が行こう?」
「決まってる」
「黒ぽんと」
「止めたって聞きゃあしねぇだろ」
「あはは、ワンコはお散歩に行きたがりだー」
「ふん」
そして全て話したとばかりに彼は沈黙を選ぶ。
「‥‥終わり?」
「あ?他に言うことでもあったか?」
「‥いや、無いよー。黒様の説明わかりやすかったしー」
不自然な間を掻き消す為にオレは殊更明るい道化を演じる。
大丈夫、もう笑えるんだから。
「子ども達にお勉強聞かれてもばっちりだねぇ、お父さん」
「いつまでそのネタ引っ張る気だ!」
「しー!子ども達が起きちゃうでしょー」
「てめっ‥‥!」
ぴくぴくと青筋立ったこめかみから、オレは軽口を叩きながらなるべく自然に見えるよう顔を反らした。
(きっとこんなの、君相手には無駄な努力なんだろうけど)
逃げるな、と言って腕を掴んだくせに、何の続きも匂わせない話の終幕。わざと話を逸らさせてくれたその優しさに、逆に身動きできなくなったのを感じた。
(それとも、オレが逃げないとでも思ってる?)
随分と信用されたものだ。
初めの頃は不審の目を隠そうともしなかった癖に。けれどオレだって一線を引き続けていることに変わりは無い。
君たちとの間に線を。そう、線を。
君の眼は一層絡み付いて剥がれなくて。
オレはあの人から逃げていたはずなのに、気がつけば笑っているときに考えているのは君のことにすり変わっていた。
どうすれば君に嫌われない?
どうすれば君から逃げられる?
どうすれば君はオレを放っておく?
どうすればどうすればどうすれば。
そうしてオレはいつの間にか、あの人じゃなくて君から逃げるようになっていた。
連れ出してはくれても、そこから連れて行ってくれる人に出会えなかった。そしてそのまま自分から、『逃亡』という建前の本音であの世界を飛び出した。
そして出逢ったその腕はずっと求めていたもののはずなのに、氷を溶かすその温かさが恐くて仕方が無いんだ。
ねぇ君はオレにどうしてほしいの?
ねぇ君はオレに何がしたいの?
君とオレとじゃあ、なにもかもが違い過ぎるよ。
ねぇ、お願いだから
(──‥‥これ以上、オレに惨めな思いをさせないでよぅ)
それからは特に会話は交わさなかった。
ざあさあと降り注ぐ大量の水の音だけが間に響く。
ふ、と何気なく窓の外へと視線を移す。
「‥‥雨、少し止んできた」
「そうだな」
独り言に返って来た相槌になんだか落ち着かない気にさせられた。
雪に覆われた自分の国では滅多にお目にかかれなかった自然の現象。初めのうちは珍しかった雨も今では慣れ親しんだものに変わってしまった。今はもう懐かしい、君達と出逢ったあの時。
「‥そういえば、次元の魔女さんのところも雨が降ってたね」
「そうだな」
オレたちが出逢った場所も水の滴る灰に染まった空の下。
逃げ込んだ初めての世界で初めて見た色は君の瞳。
敵意しかないその深紅の炎に舐められた、たったそれだけで、凍らした筈の何かが疼いた感触。
忘れようと思えば思う程強く残る前に進みたいと願う感触。
光なんかない闇の中にオレはいるのに。
もう一度目を向ける。
窓の外にあるのは、全てを溶かす冷たい雨と閉ざされた灰の空。
「‥‥暗い、ね」
「これでももうじき夜明けだそうだ」
「‥‥そう」
暗闇の中で迎える朝は、オレに少しだけ故郷を思い出させた。
あの国に似た空の下でオレは、オレを必要と言ってくれた人へ、求められた答えを返せるだろうか。
「小狼君、そろそろ起きるかもしれないから服の用意してくるよー」
床から腰を離し立ち上がる。
似ているが故につまり決定的に違う、この空に一瞥だけをくれて。
素のままの自分が好きだと、そう告げてくれたから
君に捕まるかオレが逃げ切るか、それとも。
確かなのは、この惰性を振り切る決着に向けて夜が明けたことだけ
ファイの着てた防護服は黒鋼が着る予定だったはず、という妄想から。
2007.1.27 わたぐも