人に何かして貰ったら『ありがとう』と言うのだと教わった。
感謝の気持ちを相手に返すのだと言っていた。
ぐるぐるぐると頭の中を記憶が巡って気持ち悪い。
少し待って欲しいと言われたここは廊下。
土足で踏まれること無い床にぺたんと尻を付け、太股が胸に付くまで引き寄せ膝を抱える。この姿勢を保って結構な時間が起った気もするし、まだちょっとな気もする。膝の皿に押しつけた額がそろそろ痛くなってきたので頬に変えた。
板張りの床に座る自分の正面には紙の引き戸。奥には二つの気配。
その片方が飛び跳ねた音にこっちの肩と心臓が跳ねる。
防音なんてまるでなってない紙の向こうから聞こえる第一声は結構な叫び声。
(あーもー違うでしょ起きて一番に言うことはおはようございますだしっていうか今のその状態でまず思いつくのはオレたちじゃなくて君の腕だろうにどんだけったく馬鹿じゃないの君ってあーそーだった馬鹿だったんだ君)
なんて思ってみたってこっちの何も変わりやしない。
膝に押し付ける頬に更に体重を掛けて圧迫しても肉が寄ってぼやけ始めた右の視界が狭まるだけ。口の端と眉の情けなさはキープされたまま。
戸の向こうから聞こえる声はとても静かで朗々と詠み詠われる詩のよう。少し沈んだ響きがらしくなかった。
その声音と内容に聞いてるこっちは悲しくなる――のではなく、何故だかムカムカと腹が立ってきた。
何ひとりで語りに入ってるの、とか。
うっわー「詮無い」とか偉そう!、とか。
え?それ違くない?、とか。
こっちの意見を寸とも聞かずに「悔いるつもりはねぇ」ってぶっちゃけ有り得ない。おまえ勝手に自己完結してんじゃねーよ。とか。
自己完結。うんそうそれだ自己完結。自分勝手め。
(――ああ、そうか)
思っても言えない伝えられない伝わらない。
間にあるのは高が紙一枚の薄い隔たり。邪魔。鬱陶しい。
それならいっそ四の五の言わずに黙ってやがれ。但し身勝手な自己完結には制裁有り。
(ねぇ、ファイ。オレ、どうも気付いちゃったらしいよ)
超えられないはずがないじゃないかこの程度。
それはなんと高々紙一重の薄さ。
入室を許可されるより前に立ち上がり扉を睨む。
鈴の鳴るような声が合図をしてからタイムラグも無く、待ってましたとばかりに戸を引き床を踏む。
行き着いた布団の前、見上げる君は決して目を逸らさない。
だからこそよく見える情けない泣きそうなその顔が、いつかの誰かとデジャヴした。構え。殴打。間抜け面。
「お返しだよ、『黒様』」
人に何かして貰ったら『ありがとう』と言うのだと教わった。
感謝の気持ちを『お返し』するのだと言っていた。
「‥‥ぶっとばすぞ、てめぇ」
まったく、この人は何を言っているんだか。
「ありがとう」には「どういたしまして」が決まりだろう?
ルール違反常習者
ファイが開き直ったのはふすまの向こうでの待機中。
2007.9.26 わたぐも