「‥‥悪ぃな」
―――オレ、そんな風に思ってないのに。
海苔巻き
「お味噌汁、作るからね」
「ああ」
はたはたと、着物の腕が薄っぺらく揺れている。
此処に来てから季節はおよそ一回りした。
最近では夜中に傷口が疼く事も大分少なくなったらしい。慣れてきた、と語ってくれた。‥慣れと感じないことは違うのだけれど。
日本国のお医者様がいくら治療を施しても、精々傷からの出血を止めて傷口を塞ぐぐらい。
左腕が生えることは無い。
いつだったか。こっそり勝手に、次元の魔女に「左腕を戻して欲しい」と頼んだことがある。が、断られた。
対価だから無理だ、と。オレと引き換えたから無理だと。言われた。
それを聞いて「だったらオレがいなければ」と口走った次の瞬間には、オレはまた彼に殴られて怒鳴られていた。
『‥さっきまで寝てた癖に‥こんな時ばっかり起きないでよね‥』
左腕と刀。
それは強くあれと謳う彼の倫理と価値観、力の象徴。この人が今まで生きてきた意味の全てだ。
父親との約束を守る為に生きてきた。
大事なものを守る為に力を使うと豪語していた。
大事なもの。
それと引き換えられる、それと等価である。
それだけの価値が己にあるのだと言われて―――、嬉しかったのだ。
自分のせいで腕を捨てさせたのに、感じたのは歓喜の心。追ってやってきたのが罪悪感。
捨ててくれたことが嬉しかっただなんて、自分はどこまで自分勝手なのだろう。不便を強いられるのは彼なのに。
そんな自分が嫌で嫌で、思わずその事をぶつけるように叫んで話せば、彼の瞳はまん丸になった。
『なんだ、おまえ、意外にちゃんとわかってんじゃねぇか』
―――嬉しいんなら、それでいいんだ。
今度はオレの目がまん丸になる番だった。
‥‥また、うれし、かったのだ。
『‥‥寝言は寝て言うものなんだよぅ』
セレスで散々に泣いたのに、オレはまた、今度は声を上げて馬鹿みたいに泣いていた。
ぐるぐると鍋の中身をかき混ぜる。
沸騰させないように、火を切ってから味噌を溶かす。
お味噌汁のお出汁は濁る位が丁度良い。前回、コンソメ張りの薄さにしたらあまりその、美味しくなかった。
それでも彼は相変わらず、出したものは全部平らげてくれるのだけど。
「どんな感じ?」
「悪くねぇ」
そして前回の失敗を省みて、以来、黒鋼にも一緒に台所に立ってもらっている。主に味見係だ。
本当は未だ絶対安静が必要な身体、本来ならば床に縛り付けてでも寝ていて頂きたいのが本音。実際縛り付けたこともある。
けれどそこは一応忍者らしく、伊達に訓練は積んでない。
縄抜けとかいう業を駆使して脱走されて以来、部屋の中を歩く位の運動ならば、寧ろしてもらうことにしていた。
「本当?」
「ああ」
「お味噌汁の出汁はマスターかなぁ」
「で、具は?」
「き、今日は大丈夫!油揚げだから!」
「そうか。油抜きはちゃんとしろよ」
「‥‥‥‥‥‥‥‥あぶら、ぬき?」
知らないこともそれなりに、ある。
今までは良くも悪くも、誰かに何かを習うという立場にあまりいなかった自分にとって、此処で得た立ち位置はいつも誰かと寄り添える場所。本当に幸せと思える場所だった。
「‥おー‥」
沸騰したお湯をお揚げに掛けると、じゅわじゅわと湯気が立った。
見た目の変化は何も無いけど、此れで余分な油が抜けて美味しくなるらしい。
物珍しげにその光景を眺めるオレの隣に立つ黒鋼が不意に言葉を漏らした。
「‥握り飯」
「え?食べたい‥の?」
お揚げに気を取られていたオレは、見上げた彼の表情が存外真剣で、そして沈んでいたことが予想外で語尾が詰まった。
「もう作ってやれないな、と思った。―――‥おまえ、好きだっただろ」
‥‥悪ぃな。
それっきり、黙り込んでしまった彼の隣で、オレはしっかり固まっていた。
思っても見ない言葉の不意打ちに心臓が止まるかと思った。次いで泣きそうになった。
覚えててくれた。違う、理解、してくれていたんだ。と。
旅の初め、言葉が通じなかったあの世界。心を通わすことを放棄していたあの時間。
不安で仕方がなかった。
あの時、嘘をついていたのはオレなのに、彼の言葉の真意が聞けないことに裏切られた気になった。
突き放しているのはオレなのに、彼に見放されるかもしれない明日に酷く怯えた。
嘘しかなかった日々の中、意志すら聞けない夜色の中、君だけがオレを見つけてくれた。
今一番大変なのは君なのに、君は一体どれだけオレの事を考えてくれているのだろう。
作れない事に済まない、とか。
(――‥あ、やばい。オレ、今、泣きそう、だ。)
「オレは、『しゃけ』が好き!」
殊更明るい声を上げた。
弾んだ声がせめて揺れて聞こえなかったことだけを祈ってみる。
本当に泣きそうだった。でも心配は掛けたくない。その想いははもう強がりじゃ無い。
「なんだ、いきなり」
「おむすびの中身ー」
途端、気まずくなる君の顔。
隻腕になってから増えたその表情。指摘したってきっと否定される。
でもわかるよ。だって、眉間の皺の寄り方がいつもと違うんだ。
(‥‥ああ、そうだった)
こんな図体してたって、どんなに心が強くったって、この人は自分よりも、何倍だって年下なのだ。
いつもいつだってオレを助けてくれる強い人。でもこの人だってまだ子どもなのだ。
「今度は、オレが作ったげるよ」
オレが寄り添えてしまえる、人の身体としては不自然な空間。
がらんどうに空いたスペースが少し哀しい。そっと寄り添う。拒まれない。
「オレさ、思うんだ」
拒まれなくても、心が動く。
オレが気にするのと同じくらい、けれど違う意味でこの人も腕の事を気にしてる。
そんな顔、しなくていいよ、と思う。
オレ、そんな風に思ってないから。
「あの時、オレがもっと利口だったら、君は片腕失くさずに済んだのに、って」
「おい」
「これからは、もう腕、失くさなくて良いから」
ネガティブな発言に黒鋼が顔を顰めたけれど、構わず続けた。
暗い話がしたいわけじゃない。
もう、決めたんだ。
笑顔で逃げることはしない。瞼で瞳を隠したりしない。
微笑みまでに留めて、今は未だ蒼さを保っている隻眼で前を見据える。
「オレが腕になる」
赤い目が確かに見開いたことが、この発言が彼にとって不意打ちだったことを知らせていい気になった。
「オレが、君の片腕になるよ」
驚いたような表情が何か言おうとして、けれどまた口を閉じた。
いつだって口下手な君。
何かを伝えようとはするのだけれど、その言葉は大概オレには伝わらない。
ストレートな物言いが、核しか無いから本質過ぎてわからなかった。
君はいつだってそんなだったけど、ねぇ、知ってる?気付いてる?
今のオレが、君にはちゃんと見えている?
オレね、もう、君と目線だって合わせられるんだよ。
真正面から、君のその眼を見据えることが出来るんだよ。
「もう、切り離したりしたら駄目だからねー」
「‥頼まれたって放しゃしねぇよ」
「ホントかなぁ」
年上風を吹かせたオレに、君は「腹が減った」と話を逸らした。