叩かれた部屋の戸を開けて一番、ファイに押し付けられたのは酒瓶だった。

有無も言わさず胸へと押しやられたそれを反射的に受け取ってしまった魔術師は、ぱちぱちと眼を瞬かせて手の内の液体の入った重い硝子と廊下に立つ忍者の顔を交互に見る。
一方黒鋼といえば、さも当然、と魔術師と共に幾日を過ごした勝手知ったる部屋へと踏み入る。
その際、入り口を塞ぐ形で立っていた魔術師を片手で押しのけたので華奢な身体がよろめいた。慌てたファイが踏ん張りを利かすが、抱いた酒瓶に付いた慣性に足より腰が持って行かれる。
ふらつく足を叱咤しつつ、ファイの眼は不審げに黒鋼を追う。
再三よろめく彼のことなど気にも留めず、男は持ってきた酒やら肴やらを広げていた。


「俺ぁ今から朝まで飲む」


どん、と畳に腰を下ろした黒鋼を、ファイは戸口から少しずれた位置に立ったまま、困惑した様子で眺めるだけ。
澄んだ蒼から底の見えない漆黒へと変わった瞳は、旅の連れの行動の真意を測れず戸惑いに揺れていた。


「だから、付き合え」


言っている事はこれっぽっちもわからなかったが、酒を煽る前から据わっている眼に睨まれれば、何故か怒りに似た反抗的な感情が魔術師の中に芽生えた。













この国に来て言葉がわからなくなって、オレは故郷の事を考えるようになった。
正確には、考える時間が増えた。

ここには思考を紛らわすものも、思考を紛らわしてきた言葉も無い。
君がいつも言う、下らない戯言、下らない遊戯、下らないオレ。
そんなこと、指摘されるまでも無い。
全部全部ただ逃げる為の手段だったなんて、そんなのオレが一番わかってたよ。



「‥ひ、‥くっ?」


自分の意思とは関係無しに喉が鳴った。
ゆらゆらと目の前が揺れている。
頭がふらふらして、耳も遠く音が歪む。
今とさっき、これからとこれまでの区別がつかなくなる。
ふわふわとしていて久方ぶりの夢を見ているような感触。
甘ったるいアルコールの匂いは自分から、嗅いだことの無い草の匂いは頭を置いた床から届いた。


ファイ


知らない言葉が降って来る。
鬱陶しい、と思いながらも瞳だけを動かすと、黒い髪と黒い瞳がオレを見下ろしていた。


―――知ってるよ。その瞳、本当は赤いんだよね。
だからこそあの時、色が変わった瞳を見て、君が違う人になってしまった錯覚を受けた。
オレが理解したくないことをオレにわかる言葉で話していた君が、同じ声のトーンで急に訳のわからないことを言い出した。


「‥‥何で君はオレの前に現れたの?」


ぽろりと零れたそれは、いつも抱いていた疑問。
通じないとわかっていても、口にすることだけは出来なかった疑問。


「何で、君なの?」


いつもいつも知りたかった疑問の答え。
そして最も知りたくなかった疑問の答え。
答えを知るのが怖くって、聞くことは無いと思っていた。しかし一度堰を切ってしまえば止まらない。


「どうして?」


わからないことだらけ。
わかるのは、オレの前に立つのが君じゃなければ、波風立たさず躱していける自信があること。
今ここに居るのが君じゃなければオレは、こんなに苦しい想いはしなかったということ。


「‥‥君さえが居なければ‥オレはこんな想いしないで済むのかな?」


いっそ、一思いに殺せやしないだろうか。君を。

そう思うようになったのはいつからだっただろう。
きっとずっと思ってたんだ。
ただこんなにも強くそう思ったのは、この国に着いてから。強く強く、灰色の故郷を思い出すようになってからだ。


「‥‥邪魔、しないでよ」


確信してる。
このままいくと、オレは間違いなく君の足枷になる。


「‥違うね‥‥君が、オレの足枷になるんだ」


ずっとずっと待っていたのは、オレをどこかに連れて行ってくれる人。
広い背中を持った君は誰かをどこかへ連れて行くだけの力がある。でも、それはオレじゃない誰かだ。

だってそうでしょう?
オレがずっと待ってた誰かが君だったなら、オレが感じる今この瞬間が、こんなにも息苦しいものである筈が無い。


「‥君の隣を歩むのは、オレじゃない‥」


桜の国で君は、オレみたいな子を嫌いと言った。
だからいつかやってくる別れの時も、きっと後腐れなく突き放してくれるだろう。
ただ、オレはそれを笑って見送って、流せない痛みを抱えてまた逃げるんだ。


「‥‥君の国、見てみたかったな‥」



ねぇ、君は知らないでしょう?
今オレがどんな思いでここにいるか。
今オレがどんなことを考えてるか。
今オレがどんな思いで君を見ているのか。
知らないでしょう?知る気もないでしょう?知りたくもないでしょう?


だって、オレはわからないもの。
今君がどんな思いでここにいるか。
今君がどんなことを考えてるか。
今君がどんな思いで何処を見ているのか。
知らないよ。知る気もないよ。知りたくもないよ。


(‥‥‥‥あ、)


そう、知りたくないから知ってしまった。
オレがこの旅の間でどれだけ君に凭れ掛っていたのかを。

わからないから焦るんだ。
わからないから怖いんだ。
わからないから自分の知っているものと比較して、そこに見出す歴然の違いに怯え続ける。

こことオレの故郷は違いすぎるから、だからこそ雪と氷に閉ざされたあの国ばかり思い出して仕方が無い。
周囲の変化に自分だけがついていけなくて、変わらないのも変われないのも自分だけで。
どれもこれも初めて出逢う事柄に、ここは本当に違う国なのだと自覚する。
普段以上の速さと暗さで迫る影に怯えるオレに、周りの誰も気付いてくれない。
全てを置き去りにして逃げてきた自分が、たった一人、君に置き去りにされる事に恐怖している。

慣れ親しんだ言葉が耳に響かない。
慣れ親しんだ言葉が君に届かない。
ただそれだけのこと。
そう、ただそれだけのことだ。
でも、たったそれだけのことで、依存の強さと一人では生きていけない事実を思い知らされる。




「‥‥オレ‥全然‥‥大丈夫じゃないじゃない‥」




やっと見つけた逃げ場にすら、背を向けて逃げ出す自分に反吐が出そうだ。












「‥‥やっと寝たか」


すっかり酔い潰れて畳に寝そべり寝息を立てる魔術師に眼を向け、忍者は溜息をついた。
この国に着いてから、恐怖と怯え、そして滲み始めた殺意をひた隠しにしていた黒い瞳。
それが「付き合え」と言った直後、不機嫌にも似た反抗的な色が宿ったのを黒鋼は見逃さなかった。

言葉が伝わらなくとも、雰囲気で悟ったのだろう。意図が通じなくても、結果酒を飲んだのだからそれで良かった。
その後は競うように酒を空け、数本もしないうちにこの有様。


ここ数日、魔術師がろくな睡眠を摂れていないことは知っていた。
寝ては醒めて、醒めては寝て。毎夜聞くのはうなされているような声と共に早まる呼吸。
苦鳴のような声の後、開いた瞳が己の背を見ては安堵の息を吐くのも知っている。
食事だって真面に摂れていない顔色は、元々の白さを通り越して青白い。

お世辞にも良好とはいえない健康状態の人間に酒を飲ませてるのもいかがなものかと思いはしたが、しかし泥酔以外に碌な案など浮かびはしなかった。
寝れさえすれば後は一緒だろう、と後は身体だけならそれなりに出来ている魔術師任せにした。



やっと寝付けた魔術師の手前、声に出すのは憚られた名を胸のうちで反復する。

阿修羅

魔術師の様子が一変したのはこの国に着いてからではない。
もっと前、紗羅ノ国でこの名を聞いた夜からだった。
あの夜、この男は寝る事を恐れ、酒に耽る事で一晩を誤魔化した。腹を割る兆しかと思えばそうではなく、只々普段と同じ実の無い戯言を吐いていた。
只々只管に、酒に紛れぬ何かを紛らわそうと、強がりだけを吐き続けていた。


ちらりと目をやった先の魔術師の寝顔。
酒の為か赤みが上って多少血色の良くなった肌に安堵している自分いる。


「通じねぇ時ぐらい、てめぇの言葉で弱音を吐いてみろ」


そんな縋るような真似をされれば、二言も言わさずに斬り殺したのは間違いない。
ただしそれは、旅を始めた頃の自分なら、だ。
なら今はどうなのか。
不本意ながらも、この魔術師が己にわかる言葉で縋ってきたとき、今の自分は絶対に切り捨てはしないと断言出来る。

遠い昔の約束に法って、旅の間にいつしか生まれていた心。
最もこの男に限っては、背を預けることがあっても庇護の対象になるなど思いはしなかった。


「明日から、どうすっか‥‥」


悪酔いした魔術師の口から流れた言葉は自分の知らない異国語で、その内容など欠片もわかりはしなかった。
だた伝わったのは、黒くなった瞳が湛えた本音と弱音と、自分に向けられた殺意。
今の自分にわかるのはここまで、感情の欠片まで。

けれど相手はきっと違う。
こっちの感情の欠片どころか薄皮一枚だって伝わっていないし、わかってもいないのだろう。
わかろうとすることすら放棄しているかもしれない。

怒鳴りつけても意味が無い。
今の自分達は言葉が通じない以上、伝わらない。
しかしよくよく考えれば言葉が通じた今までだって、言葉が通じても意味は伝わっていなかった。
つまり、事態はあまり変わっていないことに気付いて眉間に皺が増える。


「‥‥‥‥やっぱ、面倒くせぇ」




がりがりと頭を掻きながらも、縋るような弱さで掴まれた服の裾を解く気は無かった。








あの日あの時あの場所で、君だけが僕を見つけてくれた





オレですらオレを見つけることが出来てなかったのに

夜魔到着4日目くらい。(細かいな)ファイはファイが思ってるほど、器用な子じゃないと思うんだ。
黒鋼は標準装備の怠惰・虚栄心諸々を素早く見抜くスコープでばしばしファイを暴いていけばいい。
ファイは黒鋼に対する苛々云々が殺意くらいに育ってると丁度いい。(歪み過ぎ)


2006.8.15  わたぐも