今はまだ無理でも。

いつかきっと、気遣いも小細工もなしに堂々と触れられるように。






彼の掲げる一大目標






夏といえば、熱帯。灼熱。熱燗。

つまり、暑い。

まとめると、とにかく暑い。

しかし夏は俺の好きな季節。
何故ならそれはギギナの嫌いな季節だからだ。


そして今年のアシュレイ・ブフ&ソレル咒式事務所の掲げる夏の目標は、



一、冷蔵庫を開けるのは三秒まで
一、冷房をつけるのは午後から
一、アイスは自腹



以上三点。

勿論、これらの全てが全て事務所の経済状態改善の為になるのは言うまでも無く、 そしてこれらの全てが全て暑さに弱いギギナへの嫌がらせの為であることもまた、言うまでも無い。




そんな夏の日の午前。


事務所夏の三大目標と名打った動く女吸引自発的借金製造機の耐熱度調査、つまるところ ただの嫌がらせの続く事務所応接室の室温はとうに30度を超えている。

直にこのエリダナで太陽が最も高くなる時間がやってくるので、その温度はそのまま鰻上りに上昇していくこと 間違いなし。

それはギギナにとってこの上なく不愉快、且つ、俺にとってこの上なく愉快なこと間違いなし。



…いや、正直言って暑いです。
かなり暑いですよ。
えぇ、暑いですとも。



だが例え本日が予想最低気温30度を超える真夏日であっても。
だが例え本日が昨日の雨のせいで湿度が70パーセントを超えて蒸し暑くても。

これで事務所の光熱費の冷房の項目が単純計算で半額になる。
素晴らしいじゃないか。

そして。



「あっれー、どうしたのギッギナくーん?」



事務所の中には直射日光は差し込んでこない為、いつぞやのように雑誌を顔に乗せての日除けは意味が無い。
むしろ呼吸が出来ず、余計に暑い。

だからこの節約法は、暑さにダレるギギナ苦渋の顔が直接拝むことが出来るのだ。



「愛読書の年間家具雑誌は今日はご無沙汰ー?」

「………うるさい」

「うっわ、死にかけの猫の声」

「………やかましい」



滅多に拝見できないギギナのこの弱り切った面白貴重顔が見られるならば、室温36度だってなんてことはない。
俺の脳はこれを低温サウナとして処理出来る。

気分は宛ら、俺への嫌がらせの為ならばドラッケンの民族意識にあるまじき神の存在をも信じると高らかに 宣言したどっかの戦闘民族だ。



「大丈夫かー?」

「………労わる気があるなら」

「冷房はつけません」



言葉尻を継いで断固拒否すれば、むぅ、としかめっ面になった。
あー、愉快爽快面白い。
福眼、福眼。



「午前中は比較的涼しいんだから我慢しろって」

「その格言は嘘だ。ここの夏の朝が涼しかった例がない」



それだけ言ってまたばったりダウン。

あらら、本当に元気が無いみたい。



「…そんなに暑いんなら水浴びでもしてきたら?」

「……そこまで行くのも」

「暑くて面倒ですか」





その後結局、暑さを耐え忍ぶ根性が成分として含有されていない北方戦闘民族は よろよろと事務所備え付けの簡易浴室に向かった。



この夏、何だかんだと言いながらも、事務所にいる間の午前中はまだ一度も冷房をつけていない。
計画当初は三日続けばよい方だと踏んでいたのだが事の外、俺の予想を良い方へと裏切り意外と長続きしている。

家具を人質に脅したのが効いたのかもしれない。
ヒルルカだと秋が怖いので、そこら辺の棚で。




「……あ」



というか、水浴びなんかしたら今度は水道代が上がるじゃないか。
シャワーって結構水使うんだぞ。

自分で勧めておきながら馬鹿なことをしたと気付く。
浴室からは既に水音。


どうする、ギギナに早めに切り上げるよう言いに行くか。
しかしだからといって、浴室に入るのは気が引ける。
いや、別に男同士どうってこと無いんですが俺とギギナの場合はどうってことあるというか。

でも水道代は惜しい。
自分の貞操も惜しいが。



そんなことを考えながら、そういや浴室の備え付けタオルを切らしているじゃないかと余計なことに気付いてしまい、果たして持っていくべきか どうか乾いたタオル片手に浴室前でウロウロしていたらギギナが出てきた。



「…お、お早い上がりで」



泳いだ目をしてタオル片手に浴室前。

明らかに挙動不審な俺を、しかしギギナは一瞥しただけで、ああ、とか言って通り過ぎる。
ぽたぽた、という効果音つきで。



「……ギギナ」



溜息混じりに過ぎてゆく背に声を掛ければ、振り返った顔には多少涼しくなったらしく少し機嫌の良い表情。
しかし呼ばれた理由は理解していない。


下を見ろ、と床を人差し指で指せば、暑さで頭が沸いたのか素直に視線を移動させる。
浴室から応接室までのギギナの動線を忠実になぞった水の軌跡。
洗った髪から滴る水滴が作る水溜り。



「ちゃんと拭いてから戻ってこいって」

「拭くものが無かった」



広がり続ける床の水溜りをギギナは無機質に見下ろして、その拍子に張り付いた髪を鬱陶しげに掻き上げた。

その掻き上げられた銀髪の束が室内の薄暗い光を受けて鈍く光る。
それでも柔らかそうな質感は変わらずで、そこから零れた水が白い腕を伝って流れる。



―――触りたい、かも。



浮かんだのは素直な欲求。
未だ自分から触れたことは無いあの美神への願望。



「……それくらい入る前に確認しろ」



思わず吐いてしまった溜息を掻き消す様にどうでもいい言葉を重ねる。
それに気付かなかったギギナは鼻を鳴らしただけで取り合わなかった。

そしてそのまま床に染みを増やしながら歩み、ヒルルカに座ろうとして―――座らない。



「ギギナ?」



否、座れなかったのだ。



「なにやってんの?」

「座れぬ」

「なんで……あー…」



濡れると、染みになるから。


呆れる俺の視線の先、心なしか愛娘を見つめる銀瞳が切なげだ。
だから…というわけではなかったが、だから拭けと言ったのに。


しかし俺の口から出たのはとんでもない一言。



「拭いてやろうか」



言ってすぐさま後悔した。


なに言ってんだ、俺。
そんなあからさまに意味不明な言動。
ギギナになんて絡まれるかわかったわかったもんじゃないだろ。
アホか俺は。
いや、アホはギギナだ。

つーか、早くなんかつっこめギギナ。



「…ギギナ?」



半ば八つ当たり気味的的外れな怒りを心中でぶつけながらもいつまで経っても何も言わない相棒をちらりと見れば、 揶揄する様子も無く視線だけでじっとこちらを見据えていた。

その視線の意味することとは―――



「…え、マジ?」



そう呟けば、意地悪そうに嗤ったギギナ。



「言い出したのは貴様だろう?」

「……そーだけど…」



うっかり無意識に何も考えずに自然と出た言葉でありました―――なんて言えない。
何故ならやっぱりギギナが視線で訴えてくるからだ。


あっれー、こいつってこんなに甘えたがりだったっけー?


しかし俺の内なる狼狽など気にした風も無く、ギギナは相変わらずじっとこちらを凝視してくる。
その瞳にこの状況を愉しんでいるような色を発見してしまい、やはり自分が妥協するしかないことを理解させられた。



「……………そこ、座って」



諦めた俺は溜息交じりに机を挟んでヒルルカの向かい、ビニル張りのソファを指す。
そこ、とは、普段俺が愛用しているソファの為、ギギナは濡れるのも気にせず腰を下ろした。
今更だからいいですけどね、別に。

一人用のソファがギギナの体重を受けて軋んだ音を立てる。
その後ろに回った俺の心臓も軋みそうだ。

自分で言い出したこととはいえ、これはかなり心臓に悪いと身を以って知った。
なんかよくわからないけど、心臓が痛い。脈が速い。



―――早いとこ終わらせよう。



広げたタオルで濡れた銀髪を描き回そうとして、ぴたりと手が止まった。



俺からギギナに触れる



そのことを、その事実を改めて認識したからだ。





ギギナは他人に触れられることを大いに嫌っている。

こちらからギギナには触れない。

それがギギナとの関係を保つ為の最低限度の境界線だ。
その経緯に至る理由は知らないけれど、その事実を俺は知っている。
そしてその最後の一線を越えた奴らの末路も。


例外として、一人の少女を除いて。


向日葵のような笑顔の少女だった。

明るく健気で少し我侭な。
彼女には守ってやらなくてはと思わせる雰囲気があった。
そう思わせる力があった。

比喩ではなく、本当に人の心を操る力が。

もしかしたらあの時少女がこの男に触れられたのも、その力の影響だったのかもしれない。
あれは本当はこの男が望んだことではなくて、少女の人の心を動かす力の助けを借りたもので。



―――だが。



確かに少女には人を操る力があったけど。
しかしきっとそれだけではなかったんだと思う。

例えば、彼女自身の純粋な想い。
人を信じようとして、愛し愛されようとして、その為に全てを投げ出せる純粋な想い。

力よりも、そのまっすぐな想いが人の心を大きく動かした。
人を寄せ付けないこの男の心さえも、きっと。



―――では、俺は?



浅ましく、人を信じず、裏切って。
与えられた愛情に報いることも出来ずにそれどころか食い尽くす。

そんな醜い自分がこのどこまでも高らかに歩み続ける男に触れて良いのか。
そんな資格があるのか。


恐れ多くも、自分からなどと。



「―――…」



―――身が、竦んでいる。


今回のこの状態、言い出したのは俺でもギギナだって悪乗りしてきた。
許可が出た。
俺に人を操る力なんか無いんだから、ギギナ自身が良いと言ったんだ。
なら、俺から触れることにも何の問題も無いじゃないか。


そう何度も自分に言い聞かせた。


大丈夫だと。

何かあったら笑って冗談にすれば良いだけだと。


しかし一度浮かんだ疑念は消えない。

不安は拭えない。

怖い。

拒絶が。



―――他の誰からでもなく、ギギナからの拒絶が。




俺はギギナの頭に渇いたタオルを落とした。



「ガユス?」



不思議そうな声が返ってくる。
あの強い瞳が真っ直ぐに俺を見据えている。

視線は―――合わせられなかった。



「………子供じゃないんだから、自分で拭け」



硬くて弱い自分の声。
いつまでも臆病な自分に嫌気が差す。
そしてそのまま視線を合わすことなく、逃げるようにその場から離れる。

しかし遅れた腕をギギナに掴まれ強引に引き寄せられた。



「っ、ギギナっ!?」



不意のことで受身も取れずに、わけもわからず慌てて正面にきた銀頭にしがみつく。
それは丁度ギギナの膝を跨ぎ、一人用のソファの上で向かい合わせに鎮座した状態。

手首から腰に回されたギギナの腕に強く抱き締められたその感触に自分達の今の体制を無理矢理に理解させられた。

恥ずかしさと混乱からか顔面に朱が上ったのを感じる。
俺の胸に顔を埋めたギギナの位置からはそれが見えないのだけが救い。



「はっ…はなせっ!」



しかしどれだけ暴れてもギギナの腕が弱まることも剥がれることも無く、それどころか余計に強くなった抱擁に狼狽した俺に対してなのか、 ギギナが微笑ったのが触れている箇所から伝わった。




「これならば拭きやすいだろう?」




その言葉に泣きそうに心臓が痛んだのはきっと、ギギナが依然俺の胸に顔を埋めたまま心臓に向かって喋ったからだ。



「………変わんないし」



弱弱しく呟かれた一言。



そう、何も変わっていない。


俺は依然弱いままで醜くて、臆病で。
だからお前が俺を甘やかすから、俺はちっとも前に進めやしない。

俺は堂々と、俺からお前に触れられるようになりたいのに。




「眼鏡、心臓が煩い」

「…そんなギギナがうるさい」




腹が立つからタオル越しの銀髪をぐしゃぐしゃに掻き回す。



夏の暑い日。

シャンプーの柔らかい匂いが広がった。





錫様からのキリリクでした。
ガユスからギギナに触れてみよう企画。ん、あれ、触れてない?
ガユスがいつまでもぐるぐると思考を回すのはやっぱりギギナが甘やかすからだと思います。
ちゃんとわかってそうなギギナも好き。(趣味に走った!)

キリリク、有難うございました!
こちらはリクしてくださった錫様のみお持ち帰りOKです。


2005.8.7  わたぐも