「好きだ」と言われた。

「そうか」と答えた。



すると奴は「冗談だよ」と言って笑った。





30.誤解だ





身の入らない朝の礼拝を終えて扉を開く。
応接室にいるのは今日も美しい愛娘。と。


「……」


冷えた革張りの椅子。

事務所にガユスが来ない。
事務所にガユスがいない。
口煩いあの男がいない分だけ事務所が広い。


今日。と昨日。
誰にも温めて貰えなかった革椅子。
触れてみたけど冷たさ以外は何も感じなかった。

携帯には何度か掛けた。
しかし声が聞けたことは一度も無かった。


吐いた溜息が暗く広い部屋に響いてしまった。


自宅に掛けてみることにした。
凍えきった革椅子が不憫で忍びなかったからだ、と愛娘に言い訳してから。




体内に響くコール音が長かった。
やはり受話器が取られることは無くそのまま留守番応答に切り替わる。
機械の音声と甲高い発信音がギギナを出迎えた。


「事務所に来い」


名前も名乗らず挨拶もせず呼びかけもしないで用件のみを述べてやった。それが己のスタイルだった。
昔「季節の挨拶を混ぜろ」と言われたのを思い出す。
まだ相棒同士だったあの頃の思い出。


「聞こえているのだろう」


向こうの音は聞こえない。
けれどガユスが聞いているという確信はあった。
寝台の隅で蹲っていると思った。
稀に盗み見た仮眠室のあの男は、仕事の後いつもそうだったから。


「なんとか言ったらどうだ」


そしてしばらく沈黙していると、事務所の電話が鳴った。
しかし今は仕事などに構う気はないので放置する。


「ガユス」


何も答えない相手がもどかしい。
煩く鳴り続ける事務所の電話に苛々する。
線を切ってしまおうと屠竜刀を握ったら留守番応答に切り替わった。


『…応答が面倒だからって電話線切ったりするなよ』


二日ぶりの声。
季節の挨拶を入れろと言った本人こそがそれを無視した。


「ガユス」
『ガユス』


思わず呼んだ名前が事務所の電話の拡張機から反響する。



言葉少なな己が原因なのは明らかだった。

あの時、相手の言葉に頷くしかしなかったから。
馬鹿な上に阿呆で貧弱で臆病で、そしてやはり馬鹿なあの男が誤解の仕様も無い言葉を返さなかったから。

返さなくてもわかると思っていたから。
わかってくれていると思っていたから。

あの一言にこの男がどれほどの覚悟を要されたか、自分がわかっていなかったから。



「愛している」
『愛している』



この一言を伝えることにどれほどの覚悟が必要なのか、自分自身も知らなかったから。

声が震えているのは音が二重に聞こえるからだと思った。


『―――…あ…そう…』

「もう少し反応しろ」

『…うっさい、ちょっと驚いたんだ』

「私はかなり驚いた」


相手は目の前にいないのにそっぽを向いてそう返した。


『………そう…、なんだ?』


意外そうな声がした。


「そうだ」

『……そっか…』







『そっか』


噛み締めて納得して理解して。
満足した声がした。


「ガユス、もう一度言え」

『何を?』

「愛している、と」

『…もう一度も何もそんなの一度も言ってないし』


気付けばずっと握ったままだった椅子の肘掛が熱くなっていた。


「言っただろうが」

『言ってない』


相手のムキになった物言いに笑みが零れた。

ガサガサと布の擦れる音がする。
やはり寝台の隅で蹲って、おまけに毛布まで被っていたようだ。


温まっているだろう毛布に腹が立った。


「…待っていろ」

『え?』

「今からそちらに行く」

『お泊りなんてお父さん許しませんよ』





むすりと黙ると『冗談だよ』と小さく笑う声がした。







すれ違ったままだと悲しくなったのでカップルにしてみました。


2006.5.4  わたぐも