仕事が来ない。
依頼の電話が来ない。
あいつも来ない。





two traffic lane love - 4.「いってらっしゃい」はいつもなかった





やることがない。
この数日、依頼も新しい領収書も舞い込んでこないので、帳簿もこれ以上弄り様が無い。
我が事務所の経営の行き詰まりの原因が俺の経営手腕で無いことは前々から明白であったが、ここに来てやっとそれが証明された。

やることがない。
かといって新しい咒式の考案は気が向かない。料理本も小説も読み飽きた。


「‥俺も飽きられたかな」


閑散とした事務所での呟きは虚しく床に落ちて跳ね返りもしない。
たった一人足りないだけ。
それだけで狭い事務所がやたらと広く見える。


「あいつ、質量だけは一人前だったからな」


物理的にも精神的にも。
「その質量をこの世から消せ!」なんて雑言をよく吐いた。本当に消えろなんて思ってなかったのに。


あの日以来、ギギナが事務所に来ない。
きっと出ないだろうから、電話はしていない。

抱いた相手と顔を合わすのが気まずいんです、なんて殊勝な精神があいつに無いのは知っている。
ギギナが事務所に来ない原因は、俺に興味が無くなったか忘れたか。このニ択だと思う。どっちを選んでも多分正解。

しかしこうも音沙汰無いと、ギギナって実在したのかな、と根本から疑問に思ってしまう。
神話の世界から零れ落ちたような外見だから、「実はこの世の生き物じゃないんです、伝説上の存在なんです」って言われても俺は信じれる。神様を見た気分だった。綺麗などという次元じゃなかった。
まあ、俺じゃあうっかりでも絶対買わない価格の椅子が視界に入るから、奴は間違いなくこの世にいるんだけど。


ついでに言うと、顔を合わすのが気まずいんです、という処女みたいな精神は俺にも無かった。
最悪な形で失恋したけど、一晩泣いたらなんか平気になった。俺って割と現金だ。
案外、女が失恋翌日には元気になってるのは、空元気でも無いのかもしれない。


「今の俺、なーんか、おまえのお父さんみたいな思考だよな」


女の感情とは違うよな。
きっと薄情なだけなんだ、あいつも俺も。

言って苦笑する。
椅子に話しかけた時点で同類、すばらしい単細胞振りを発揮している。
あいつの愛娘はこの数日野放しにされたお陰で、少し塵が積もっていた。
育児放棄だな、と思いながら柔らかそうな布を探して拭いてやる。
ふと、ギギナが図書館から「飼育動物を躾ける100の方法」という本を借りてきて熟読していた姿が脳裏に浮かんで、不覚にも吹き出してしまった。


あの夜を境に何かが変わった。
それが喪失なのか、誕生なのか、マイナスなのかプラスなのか。まだ俺にはわからない。
ただ何かが変わったことだけ漠然と感じている。
まず、ギギナがいない。


「‥‥探しても、いいかな」


会って「誰だ、貴様?」とか言われたらどうしようか。
大いに有り得る。以前どこかの女にそんな台詞を言っていた。
その時にはまず転職先が問題だな、塾講師を正式採用にしてもらおうか。ああ、事務職とかもいいな、自分では向いてると思うんだけど。

咒式士として別事務所、という案がまったく浮かばないことを自分で笑う。
あいつの隣に立てないならば、咒式士である必要も無いだろう。未練も無い。
生きるだけなら道はいくらでもあるのだから。


「それじゃあヒルルカはお留守番。君のお父さんに会ってくるよ」


いらない。知らない。
そう言われたらその時だ。
その場で考えよう。


(なんか、俺がギギナになったみたいだ)


コートを羽織って扉を開ける。
振り返る。
薄暗い応接室。
向かい合った椅子。
擦れ気味の看板は『アシュレイ・ブフ&ソレル咒式事務所』。



「―――‥いってきます」







【「いってらっしゃい」はいつも無かった】



だっていつも「一緒にいってきます」だった


2007.4.11  わたぐも