28.一休み
「ガユス」
事務所の扉が開くと同時に、アシュレイ・ブフ&ソレル咒式事務所の経理・雑事・敗北・その他担当
の青年の名を呼んだのは鋼の声。
用件としては「腹が減ったから昼飯を作れ」といったところだろう。
時刻は既に昼下がりの重役出勤さながら。
しかし応接室からは挨拶代わりの罵詈雑言も、領収書に苦悩する呻き声も、有り得ないが挨拶すらない。
まだ事務所に来ていないのか、とも思ったが感じる気配は間違いなくあの男のもの。
不審に思いながらも応接室へと足を運べばソファの影からひょっこりと赤毛が飛び出ていた。
「…ガユス?」
革張りのソファの背に手を掛け真上から覗き込めば、規則正しく上下する肩と穏やかな寝息。
「………」
しかし対してギギナの心情といえば穏やかではない。
いくら睡眠時であるからとはいえ、他人が己の間合いに侵入しても気が付かないというのはどうだろう。
いつも言っていることだがやはりこの男の危機管理能力は徹底して致命的だ。
叩き起こそうと手を伸ばせばごそりと寝返りを打たれ、伸ばしかけた手を慌てて引っ込める。
しかし直後、その自分らしからぬ行動にギギナは顔を顰めた。
「…くしゅんっ」
音源へと視線を向ければ赤毛。
先程寝返りを打った拍子に落ちた髪が鼻を擽ったのだろう。
普段不機嫌しか見せない顔は、眠りの中でも尚、居心地悪そうに顔を顰めている。
その様に些か満足感を覚えたギギナは愛娘との団欒の時間を楽しもうとその場から離れる。
「くしゅんっ」
しかし再び聞こえたそれに足を止め、振り返る。
もぞもぞと身を縮めるその様から察するに、今度は鼻がむずかったわけではないらしい。
己の肌を撫でる空気の流れを逆戻り、窓へと視線を移動させれば開け放たれたそこから秋風が入り込んでいた。
季節も秋へと移り、過ごしやすくなったと思う。
少なくとも夏は生きた心地がしなかった。
しかしまだ残暑の中。
ガユスにすれば窓を開ければ冷房代が節約出来る、といったところなのだろう。
だがならば尚更、周囲の気配には気を配るべきではないか。
戸締りすら儘ならずに居眠りなど、強盗に入ってくださいといわんばかりだ。
相棒の迂闊さに知らず溜息が漏れる。
しかしそれは自分の甘さへの溜息だったのかもしれない、ということは敢えて意識の隅に追いやった。
応接室を見渡せば、皺を気にしてかハンガーに掛けてあったガユスの長外套が目に入った。
それを無造作に掴み、ソファで蹲る持ち主に被せてみた。
しかし冷えたそれは気に入らなかったのか、ぶるりと身を震わせる。
ここまでしてやっただけでも太鼓判を押すに匹敵する偉業だろう。
普段のガユスに対する仕打ちからすれば頷ける。
後は放っておいても良かった。
だが自分の行動の一々に事細かに百面相する相棒が面白いのは事実。
それが自己完結している己に確かな優越感をもたらしているのも事実。
そこでガユスの長外套の代わりに自分の羽織っていたものを掛けてみた。
まだ温もり残るそれが今度はお気に召したのか、強張っていた身体が弛緩したように見える。
緩んだガユスの頬にそろりと触れる。
そして決して血色が良いわけではないその頬をつまみ、伸ばした。
いつだったか相棒は「世界は平和」だと口にした。
そして自分は「世界のすべては戦場だ」と返した。
平和な世界など存在しない、と。
「………間抜け面」
しかしその時の戦士の心情は確かに穏やかで、表情は優しかった。
薄っすらと開いた寝ぼけ眼に映ったのはお気に入りの椅子に座ったギギナの姿。
肘掛に肘を立てて頬杖をついて、すやすやと寝息を立てていた。
そして膝にはどこかで見たことがある気がしないでもない白い布を掛けている。
あーギギナさん、新しい長外套を買ったんですね。
「……平和」
そして俺は暖かな黒い長外套を手繰り寄せ、また眠りに落ちた。
ドラッケンの思考が弱者を省みなくてもそれを理解したギギナの思考はまた別の場所にあると思う。
そしてギギナはガユスの知らないところでガユスに甘いと思ってる。
2005.9.6 わたぐも